北野異人館街のガイド
黄色い帽子を見かけたら、気軽に声を掛けてください。私達がご案内します。ガイドの予約も受付けています。少人数でもご遠慮なくどうぞ。
北野異人館街 | 1868(慶応3)年の開港以降、多くの外国人が神戸へやってきました。住居は居留地内と定められていましたが、居留地の造成が開港の間に合わなかったので居留地の外にも居住が認められました。北野・山本地区は、南斜面の見晴らしの良い住宅地として人気を集め、最盛時には200棟を越える異人館や和風建築が建ち並んでいました。 |
北野かくれ小径 | どこか懐かしい情景を思い起こさせる北野の小径。昔のエトランゼの思いも馳せながら散策してはいかがでしょうか。 |
北野世界宗教寺院めぐり | 北野界隈にはわずか1㎞以内の範囲に様々な宗教寺院が街にとけこみエキゾチックなムードをかもしだしています。異国情緒あふれる神戸の魅力を探訪してみませんか。 |
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震災学習支援ガイド
少人数から学年単位までご案内しますが、効果的な見学ができるように、計画を立てておられる方と打合せをお願いしております。行き違いのないように申込書の利用をお願いします。用紙はページ下記からダウンロードしてお使い下さい。
マリーナの像 | 市役所を背にしたマリーナの像と5時46分で止まった時計。マリーナの像は震災で倒れました。像は復旧しましたが、マリーナの持っている時計は震災が起こった時刻(5時46分)を指したままになっています。 |
波打つ道路 | 地震に伴う液状化現象により表面に凹凸ができました。周囲の路面は復旧作業で平らにされましたが、地震の記録として一部、凹凸を残してあります。 |
慰霊と復興のモニュメント | 慰霊と復興のモニュメントは、1995(平成7)年1月17日に発生した阪神・淡路大震災を忘れることなく、震災を記憶し、復興の歩みを後世に伝え、犠牲者の慰霊と市民への励まし、大規模災害に対する世界的規模での連帯による復興の意義をアピールすることを目的として、「慰霊と復興のモニュメント設置実行委員会」の募金活動を経て、2000(平成12)年1月16日に設置されました。モニュメントの地下には、震災で亡くなられた方のお名前を刻んだ銘板が掲示されてます。「瞑想空間」と呼ばれています。 |
1.17希望の灯り(あかり) | 御影石で作られた台座の上、ガラスケースで覆われてガス灯の炎をが揺れています。この火は、被災10市10町と全国47都道府県から贈られた「支援の火」を一つにしたもので、昼夜を問わず周囲を照らしています。台座には写真の言葉が記されています。 |
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旧居留地のガイド
1868(慶応3)年兵庫開港に伴って、外国人居留地が設けられました。イギリス人のJ・W・ハートが設計。居留地の中央に幅約20mのメインストリートを設け、下水道を埋設し道路は車道と歩道に分けられ通りにはガス灯が建てられた。整然と126区画に分けられ、東洋で最も良く設計された居留地といわれた。1899(明治32)年の条約改正まで、日本の統治支配が及ばない、外国人自治地区でした。しかし、居留地は貿易の拠点となっただけでなく、西欧文化が日本に伝わる窓口の役割を果たしました。
居留地制度解消後も外国商社の繁栄は続きましたが、第一次大戦(1914〜1918(大正3〜7)年)で大きな打撃を受けて以来、日本の海運会社や商社、銀行がこれらに変わって進出し、国際的・近代都市としての神戸を代表する業務地を形成していきます。
第二次大戦で壊滅的な被害を受けるものの、1950〜1953(昭和25〜28)年の朝鮮特需により、ようやくビルが建ち始めました。しかし高度成長時代には東京への本社流出を生み、活気が低下していきます。
1987(昭和62)年、大丸のリブラブ・ウエストを皮切りに、居留地の近代建築を活かす戦略によってヨーロッパのファッションを扱い、他に真似のできない新しい街づくりに取り組んでいます。
現在は、ファッション、グルメで若い人にも人気の場所となっています。
商船三井ビル | 元大阪商船神戸支社のレトロビル。旧居留地のシンボル的存在 |
旧居留地十五番館 | 唯一残っている居留地当時の建物。居留地の記憶が詰まっています |
旧居留地煉瓦下水道 | 1870年前後の国内最古の下水道。現在も雨水幹線として使用されてます |
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